勅使河原蒼風データ〈2〉

(1936.02.26〜1945.08.15  2・26事件から、太平洋戦争終戦まで)
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下記年表内の
 赤文字……草月流外のいけばな界の動き
 青文字……蒼風の個人的な出来事
 黒文字……蒼風の公な活動と、草月流の動き 
 緑文字……いけばな以外の美術界および社会の動き
 ★印は、蒼風の作品名か作品内容。〈〉内は作品名
 ※表中敬称略    
    
勅使河原蒼風 年表   (1936.02.26〜1945.08.15)

1936(昭11)02.26

2・26事件

1937(昭12)7月

日中戦争勃発

1937(昭12)

西川一草亭死去
蒼風著『蒼風随筆』刊行
島津保次郎監督の、映画「朱と緑」の撮影時に、帝国ホテルのロビーのシーンで、ロビーの花を蒼風が手がけた

1938年(昭13)11.01

第五回蒼風個展、如水会館にて開催。出品作品60点。(他、写真20点、日本画・書多数)時節柄、金属花器は使用されなかった

★超大作2点「大がめに、松の大木、えにしだ」「中国製水がめに、枯れかけのススキ、うめもどき」
会全体の特徴:和洋折衷効果を狙った

1938(昭13)

美術雑誌アトリエ8月号に、「華道とオブジェ」と題する蒼風と福沢一郎の対談を掲載

1939年(昭14)06.05〜

日本大学芸術科に「自然造形」の講座が新設され、講師として蒼風が招かれる。毎週月曜日に講義が行われた
第二次世界大戦勃発

1940(昭15)05.13〜06.16

中国へのいけばな使節旅行に蒼風出発。上海→蘇州→鎮江→南京→青島→大連→新京→ハルピンをまわる。野戦病院の見舞い、いけばなの実演、展示・講演など。花器は現地調達されたが、手に入らない場合もあり、その場合には木や石に花を添えた。(無花器いけばなの始まり)

1940(昭15)09.27

三番町講堂にて、「蒼風一人展」開催

1940(昭15)

この頃、三田教場研究科の月謝400円

1940(昭15)1月

大政翼賛会結成
生活必需品が切符制になる

1940(昭15)11.17

母ヤソ死去

1941(昭16)2月

大政翼賛運動の一環として、全日本華道協会が発足。蒼風、世話人(東京部事務局長)を務める

1941(昭16)05.7〜8

第六回蒼風個展、如水会館にて開催。出品作品100点(他、油絵・日本画・スケッチ・書)

★「中国製籠にボタン」「南京白磁瓶に、菊、こでまり」
会全体の特徴:前年の中国旅行の影響が大きく、大陸的な要素が目立つ

1941(昭16)12.08

日本、米英に宣戦布告

1942(昭17)10.21〜23

主婦の友社主催「三大家の花展」が主婦の友社にて開催。出品者は蒼風のほかに、小原豊雲(小原流)・児島文茂(池坊)。三流派の代表による三人展は、当時としては珍しかった

★初の超小品花の発表「徳利に野菊」「油壺に白玉椿一輪」(戦後のミニアチュールの原型)

1942(昭17)

適性語が禁じられる。洋花の名も、和名で呼ぶよう、大政翼賛会から指導が入る
戦争の長期化により、花の生産激減。花生産農家は、芋の生産に切り替えなければ、非国民扱いされた
女学生の工場動員が始まる
生活社より『鋏だこ』刊行
主婦の友社より『草月流いけばなの生け方』刊行

1943(昭18)2月

日本軍、ガタルカナル島から敗退

1943(昭18)02.27

全日本華道協会による「戦艦献納華道の会」が軍人会館にて開催

1943(昭18)3〜4月

大政翼賛会の後援により、草月流の花展が4回開催される。入場料収入の全額(5038円)が、大政翼賛会を通じ、海軍省に献納された(4月10〜12日に開かれた、蒼風と師範会総務16人が出品の会は、毎日1000人を超える入場者を集める盛会だった)
この頃、大政翼賛会により、芸術や文化の各界で戦艦献納運動が盛んに行われる

1943(昭18)10.29〜31

第七回蒼風個展が、三番町講堂にて開催。(時節柄、華やかさを慎むため、恒例のだった如水会館の使用は避けられた)出品作品50点

★会の特徴:超小品花が人気を呼んだ。廃物利用花器のコーナーが設けられる(例 「干物の籠に落としを入れて投げ入れに」「電灯の笠を逆さにして油絵の具で彩色し、紐をつけて釣り花生けに」「壊れた植木鉢の胴に線彫りの模様を入れ、欠けた部分を磨き落としを入れて盛り鉢に」「竹の落としに古いすだれを巻きつけて投げ入れ筒に」「空き瓶」「土鍋の蓋」

1943(昭18)

三番町講堂に、仕事を持つ女性の稽古のために、夜間部が設けられる

1944(昭19)

この頃までは、戦時下でありながら、女性の間でいけばな熱は高まっていた。戦地に送られた男性に代わって、職場に出るようになった女性たちに、いけばなが求められた

1944(昭19)6月

蒼風一家、群馬県清里村へ疎開

草月流の書類等は、蒼風の疎開先に移された。講堂の花器・剣山は、隣の空き地に埋められた
疎開先で、蒼風の存在を知った娘たちが数人、いけばなの稽古に通ってくるようになる

疎開先では、花器が無く、紙を敷いて花器に見立て、いくつか東京から持って行った剣山を紙の上に置き、花の代わりに箸などの棒を立てて稽古をした

1944(昭19)7月

大都市で国民学校初等科の集団疎開始まる。一般家庭でも疎開が始まる
中学生の高学年以上は勤労動員により、軍需工場等で労働に従事させられる

1944(昭19)10月

米軍による本土爆撃開始

1944(昭19)11月

東京への空襲始まる

1945(昭20)03.10

東京大空襲
後に蒼風は、この頃の心境について「敗戦色が強まる厳しい暮らしの中で、花をいける気持ちになることは難しかった」と語っている
草月流の三番町講堂は軍に接収され、近衛第一連隊の宿舎として使用された

1945(昭20)05.25

最後の東京大空襲
草月流三番町講堂焼失。講堂を無くしたことを知ったとき、蒼風は「自分のいけばな人生も終わり」と思ったと語っている

1945(昭20)08.06

広島に原爆投下

1945(昭20)08.09

長崎に原爆投下

1945(昭20)08.15

日本、無条件降伏



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