勅使河原蒼風データ〈1〉

(1900.12.17〜1936.02.26  蒼風誕生から、2・26事件まで)
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下記年表内の
 赤文字……草月流外のいけばな界の動き
 青文字……蒼風の個人的な出来事
 黒文字……蒼風の公な活動と、草月流の動き 
 緑文字……いけばな以外の美術界および社会の動き
 ★印は、蒼風の作品名か作品内容。〈〉内は作品名
 ※表中敬称略    
    
勅使河原蒼風 年表   (1900.12.17〜1936.02.26)

1900(明33)12.17

大阪:堺に誕生。本名 ナ一(こういち)

1904(明37)02.10

日露戦争勃発

1904(明37)9月

花茂創業。この頃、花屋を商売として成り立たせることは難しかった。店を構えることができたのは、神田や日本橋でも2〜3件のみ。その他は車を引いての行商だった。

1905(明38)

日露戦争終結。日本、ロシアに勝利
この頃より、洋花の国内生産が始まる
日露戦争による戦争未亡人たちが、いけばなに職を求めたため、この時期のいけばな教授者人口増加
1909(明43)  この頃より、東京の新聞に、いけばな記事が多くなる

1915(大5)4月

安達潮花の花展が、帝国ホテルで開催。入場料50銭
この頃、月刊誌の値段が10銭前後

1918(大7)

中川幸夫、香川県丸亀市で誕生

19??

19歳の頃、志願して近衛隊に入る

1923(大12)09.01

関東大震災
◆関東大震災後、倒壊住宅の建て直しにより、洋建築が急増。庶民の生活様式が大きく変化する。洋間のある家が増えたため、洋花の需要も増大した。この時期より、洋花が一般に普及を始める

1925(大14)02.21

蒼風と、ハマ結婚。ハマの実家の神社(深川:神明宮)で式を挙げた。仲人は、成蹊女学校の校長:奥田正造夫妻
JOAKにより、ラジオ放送始まる

1926(大15)夏

父の勅使河原和風と訣別し、家を出る。
ある日、父と衝突し、妻を連れて、着の身着のままで、蒼風の妹の家に転がり込んだ。ハマ夫人によれば、「縫い物をしていたら、蒼風に家を出るぞ、と言われ、縫い物を片付ける時間しかなかった」)蒼風の妹の家の離れで、3〜4ヶ月暮らした。

1926(大15)

高樹町の借家(家賃35円、8畳・3畳・3畳の3間)に引越し
この頃から、徐々に西洋風の花の飾り方が一般に浸透し始める

1927(昭2)01.28

長男:宏 誕生

1927(昭2)春

草月流創流。蒼風手彫りの看板が初めて掲げられた。蒼風は「家元の看板を出せば、人はいくらでも来る」との甘い考えを最初は持っていたらしい。

「草月」の由来は、蒼風の先祖が後醍醐天皇から賜ったと伝えられる歌 「武蔵野に月の入るべき山もなし 草より出でて草に入るとは」 にちなんで名づけた

創流当初、入門者も無く、蒼風は「うちわの絵付け、一つ5銭」「封筒の絵描き、一枚3銭」「看板彫り」などの内職で生活費を稼いだ。
「看板彫り」は、蒼風の妹の夫の実家が、銀座の旅館だったため、銀座の料亭の看板彫りを請け負ったのが始まり。そこから、自分で販路を広げたらしい。その後、看板だけでなく、煙草入れの注文も入るようになり、収入としては安定していた。家族三人が暮らすのに、夫人は「つましくしていれば不安はなかった」という。

いけばなを研究するための花材も買えず、花屋(高樹町の「花長」)から屑花をわけてもらい、勉強した。器は、古道具屋から錆びた焼き芋の釜を(蒼風の記憶によれば2円50銭)買ったり、神田の中華料理屋の前に転がっていた老酒の瓶を買う(蒼風の記憶によれば50銭)などして、安く手に入れた。花をいける仕事として、花屋から料亭の座敷にいける仕事を無料で請負った。

この頃の自分の花を、蒼風は後に「経験の足りない私の作品は、とにかく独りよがりなものになりやすかったと考る」と述懐している。(蒼風著『花ぬすびと』より)

※高樹町の稽古場には、入門者は一人しか現れなかった

この頃、第一次大戦後の不況が深刻化。銀行の倒産が相次ぐ

1927(昭2)

蒼風一家、三宅坂の借家に引越し。(敷金なしで借りた)あえて「草月流」の看板は出さず、「瓶花研究所」の看板を掲げた

※高樹町の家は、閑静な場所にあったため、蒼風は気に入っていたが、閑静過ぎても入門者が無いと考え、引越した。「瓶花研究所」の看板のみ掲げ、「草月流」の看板は出さなかったのは、「マイナーな流派名が、かえって入門者を遠ざけるかもしれない」との戦略から

この場所に移ってから、20人ほどの入門者があった。和風の元から、「和風の許しを得てきた」と入門するものもあった

※「和風の許可を得てきた」と入門してきた者は、蒼風の新しい花の方が魅力があると思って来た者か、あるいは和風が親心で差し向けてきた助っ人だったのか、蒼風にも分からなかったという。(その両方だったのかもしれない)

。花器の数をそろえられず、八百屋のざるを油で磨き、花器使用した。(非花器の花器利用が始まる)

1927(昭2)11.27〜29

都新聞による「生花十傑投票」の記念生花大会が、銀座松屋7Fにて開催される。十傑以下、上位の得票者も出品し、蒼風も選ばれる。蒼風(草月流も)初の公の花展出品

★「丸壷にざくろ」「水盤に雪柳と小菊」「朱塗りの鉢に水仙」

※蒼風にとっては、十傑入りは意外だったらしく、「誰が入れてくれたものかね」と言っていたという
1927(昭2) 重森三玲「華道美学論」刊行

1928(昭3)05.05〜7

初の草月流展、銀座:千疋屋フルーツパーラーにて開催。店内のテーブルを花席利用した。出品作約20点。すべて、蒼風の手が入った。偶然この花展を見た山田耕作は、「花のオーケストラだ」と評した

★「ウィンドーに大作」「赤錆の焼き芋釜に縞ススキとかきつばたの大作」「老酒の瓶に枇杷と山百合」
全体の作品特徴:特に、線の流れが強調されている

1928(昭3)11.02

JOAKのラジオ「家庭講座」に蒼風出演。講座の内容:大菊、小菊の盛花の生け方。この放送により、草月流の知名度が増し、入門者も増えた

1928(昭3)11.17〜18

第二回草月展、日本橋三越7Fにて開催。出品者40名。初の作品ブロマイドの販売が行われる。この展覧会が、主婦の友社社長:石川武美に評価される(この頃から、雑誌「主婦の友」で、いけばなが本格的に誌面に取り上げられるようになる)
この花展が評価され、入門者も増えたことで、蒼風は「やっと希望の光明に照らされる気がした」という。(蒼風著『花ぬすびと』より)

このとき、出品にふさわしい花器が揃わず、古物商に頼み込み、花展の間だけ器を貸してもらい、使用した。

この頃から、雑誌のグラビア印刷が一般的になり、いけばな写真が効果的に利用されるようになる

1929(昭4)2月

『主婦の友』のグラビアに、小原光雲・早川尚洞・安達潮花・西川一草亭と並び、蒼風の作品が掲載される

1929(昭4)11.11〜12月

JOAKで、毎週月曜日、蒼風の7回連続ラジオ講座「誰にもできる投入花と盛花」が放送される

1930(昭5)

蒼風一家、平河町に引越し。平河町時代には、俳句・書・絵を弟子に教えることもあった

この頃、蒼風は立華に刺激を受ける

為替相場急騰、株式暴落、米価暴落(農家に大打撃となる)

1930(昭5)10月

草月流門弟:橋本草羅、タゴールにより、インドの学校にいけばな教授として招かれる

1930(昭5)

次男:明 誕生

1931(昭6)02.15

父:和風死去  この後、母:ヤソは蒼風と同居する

1931(昭6)09.19

満州事変勃発

1932(昭7)

次男:明 死去

1932(昭7)05.15

5・15事件

1932(昭7)10月

草月流誌『瓶裏』で、蒼風がはじめて平仮名表記で「いけばな」と表現する

1932(昭7)10.20

長女:霞 誕生

1932(昭7)10.22〜23

第7回草月流展、神田一ツ橋如水開館にて開催。大作発表のできる場として、この会場が選ばれた。出品数:約100点(そのうち半数は蒼風作品)。会場構成にも力が入れられた。蒼風作の日本がと油絵を背景に、いけばなと絵の調和が試みられた。「照明の間」という一室が設けられ、照明といけばなの実験的組み合わせが行われた。この花展にて、初の会場BGMが用意された。草月流としては、初の入場料製を導入。料金は1円。前売り券は、当日までに売り切れ。(華道専門誌からは、入場料を取ることについて批判された)

★2階大ホールの正面(高さ約10メートル、幅約20メートル)いっぱいに、松とつる梅もどきの大作。器は直径120センチ、深さ約60センチの中国製水鉢
この頃より、草月流に、外国人の入門者が現れる。当時の外相:内田康哉の夫人と娘が蒼風の門下生だったことの影響が大きい
この頃、日響(現在のN響)のコンサートの入場料が1円
この頃、蒼風は、夫人雑誌掲載いけばな作家の常連となる。当時、マスコミが好んで取り上げた流派は草月流と安達式。いけるのに一時間以上もかかる流儀花よりも、いけやすく、新鮮だったことから、大衆に支持された

1933(昭8)04.09〜13

重森三玲の依頼により、第三回挿花芸術展の審査員を勤めるため、京都に向かう
京都では、審査のほかに、自身の出品・座談会・懇親会に参加した

大変に実り多い関西行だったことが、蒼風のエッセイ「京都行」に綴られている

1933(昭8)04.19

蒼風第一回個展、如水会館にて開催。大ホールを含む4室に、63作品を展示。いけばなの作品写真、油絵、日本画、書も展示された。入場料2円。入場券1500枚は、当日前に売り切れ

★高さ3メートルを超える孟宗竹、梅、大花瓶の大作
★複数のいけばな作品や器を、互いに関連付け、一連の大きな作品にもとらえられる「総合華」

・作品展示の4室とは別に、作品写真専用の展示室を設け、製作年順に作品写真を展示した(個の作家性をアピールするため)
・油絵専用の展示室も1室設けた。(「余技」と断り書きつきで)「余技」についての評価は、賛否両論に分かれたという
・蒼風自身は、この個展を「満足しなかった」と述べている(草月流誌「瓶裏」より))
・入場料2円は、一般の感覚からすると、高額だったと思われるが、蒼風の、「いけばなは、婦人のたしなみにとどまるものではなく、美術的鑑賞の対象になりうる」との思いから、2円の値段設定とした
・在京の華道家、華道雑誌に送られた招待券は、12枚
・入場者の中には、外国人女性もかなり見られた
『主婦の友』6月号に、「一流大家揃ひの……生花の秘伝を語る座談会」掲載。出席者として蒼風も参加

1933(昭8)秋

「新興いけばな宣言」の草稿成立

1933(昭8)12月

主婦の友社より、蒼風著『新しい生花の上達法』刊行
本文では「いけばな」の表記を使用
日本、国際連盟脱退

1934(昭9)06.06

重森三玲の日記に、この日、「京都で蒼風、三玲、中山文甫、桑原宗慶、柳本重甫、藤井好文の6人で西芳寺庭で、新興いけばな協会について話した。10月頃、大阪で花会を開く」との記述がある
この頃の、蒼風教室の月謝は2円だった?らしい(未確認)

1935(昭10)1月

エッセイ「批評家よい出よ」で、蒼風は重森三玲や藤井好文が、いけばなについて積極的に筆をとらなくなったことを嘆いている

1936(昭9)

軍需景気、結婚ブーム

1935(昭10)05.13

交通事故にあう

1936(昭11)02.26

2・26事件



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