◆ピンクのバラとスイトピー  ウイリアム・アイリッシュ「暗闇へのワルツ」

 ウィリアム・アイリッシュという作家は、実は野の花『喪服のランデヴー』の項で紹介しているコーネル・ウールリッチと同じ人物です。一人の人間が、二つのペンネームを使い分けているわけです。現在、日本にはあまりそういうもの書きさんはいませんね。

 さて、この作品も、アイリッシュ=ウールリッチらしさで満ち満ちています。
 主人公は、輸入業を経営する男性。もう若くはなく、あせって結婚しようとしています。相手の女性は、文通で知り合った、写真しか見たことの無い人です。彼らは文通だけで熱く燃え上がり、結婚の約束までしたのでした。
 その彼女が、今日彼の住むニューオーリンズに船でやってきて、彼は波止場でそれを迎え、二人はそのまま結婚式を行う、という段取りになっています。 彼は、二人で住むための新居を建て、はたして彼女は、自分とこの家を気に入ってくれるだろうかとドキドキしています。
 不安と、幸せとで、もうホントにうわあどうしよう!という主人公の様子を、読者は冒頭から微笑ましい思いで見つめることとなります。
 ただ、主人公・ルイスは知らないけれど、読者は最初から知っている、ある重大な秘密があります。
 それは、ルイスがアイリッシュ作品の主人公だということ。スリルとサスペンスの巨匠の描く主人公である以上、彼の結婚に何らかの悲劇が絡んでくることは、逃れようが無いのです。


 しかし、ピンクのバラとスイトピーをルイスが手にする場面は、まだ行く手の悲劇は影さえも見えず、楽しく踊るような筆致の中で、恋する男の誠実さと温かさがあふれる美しいシーンです。
 この花たちは、ルイスが、家を飾るために使用人に買ってこさせたものです。ルイスは、「彼女はピンクのバラやスイトピーを気に入ってくれるだろうか?」と少し不安そうに言います。すると使用人は「ご婦人方は大抵これを買っていくそうですよ」と応えます。

 つまり、このセレクトは、花屋が勧めたものだったのですね。
 しかし、このセレクト、正解だったと私は思いますね。実際にピンクのバラとスイトピーは、女の人の好む美しい取り合わせです。そして、物語のもう少し後に出てくるのですが、妻となる女性・ジュリアの手紙に「寝室の壁紙は薄いピンクに、勿忘草のような花を散らしたものが良い」と書いてある、という場面があるのです。

 この記述で、ジュリアが、甘い、優しい花の好きな女性であることは明らかです。多分、彼女はピンクのバラとスイトピーに、歓声を上げるはずだったのに…。(結局そうはできなかったのです)
 アイリッシュは、壊れてしまうことを読者が承知している幸せや愛を、限りなく美しく描きます。
 船に乗ってやってきたのは、彼の待っていたジュリアではありませんでした。では、一体やってきたのは誰?
 ジュリアでない誰かのために、ルイスの人生は大きく捻じ曲がって行きます。ピンクのバラとスイトピーを握り締めたルイスの幸せなひと時を共有した読者には、この甘い花の記憶が、ひときわ切なく思い出されるのです。

【「暗闇へのワルツ」データ】
◆原題 Waltz Into Darkness
◆1947年 リピンコット社刊
【邦訳:出版状況】
◆高橋豊訳 「暗闇へのワルツ」 ハヤカワ・ポケット・ミステリ(早川書房)1958年刊
高橋豊訳 「暗闇へのワルツ」 ハヤカワ・ミステリ文庫(早川書房)1976年刊



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